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5月のチェコを旅して 余話 その4

5月半ばに東京へ帰ったら、私の中で化学反応が起きていました。チェコの音楽がものすごく好きになっていたのです。
もちろん今までも好きでした。そもそも13年前に初めて行ったときは、ヤナーチェクが好きでよく弾いていた私にムジカが声をかけてくださったのでした。そしてその時初めて出会ったパズデラさんとはスメタナ、ドヴォジャーク、ヤナーチェク、マルティヌー(これはチェコの代表的な作曲家4人です)を弾いてきました。チェコの素晴らしいヴァイオリニストと、たくさんのチェコの作品を共演し、またクラインとウルマンがテレジーンで書いた作品を弾いてきたのですから、自分でもチェコの音楽にたくさん触れていると思っていました。


でも興味を持たなかった部分もあったのです。例えばヨゼフ・スーク、そして今回チェコへ行く直前に名前を知ったノヴァーク、また2月の東京でのデュオ・リサイタルのアンコール曲として初めて触れたフィビヒ。このような作品は、チェコの音楽が世界的に演奏される今でも、どちらかと言えばまだあまり知られていない世界なのではないでしょうか。
私には、それらの作曲家の作品が、とても素直にチェコ人の感性で表現されているために、世界言語(?)になりにくく、そのために言わばローカルな音楽という枠から出ないでいるように思えます。そのローカル性をプラスに感じるかマイナスに感じるかで、まったく違ってくるでしょう。ですからそれがたまらなく好きという人たちが、少数派として存在することは分っていました。でも今までの私はマニアックにそういう作品が好きというわけでもなく、どちらかと言えば興味を持たずにいました。決してきらいではないけれど、自分はそういう世界に入っていっても、居心地が良いと感じることはないだろうと思っていたのです。
それが東京に帰ってから夢中になってCDや楽譜を買い集め、暇さえあればCDを聴き、また手に入れた楽譜を片っ端から弾いていました。驚いたことにスークとフィビヒはなんと、全音楽譜出版社から出ているのです。と言うことは、売っている譜面を手にしたことだってあったはずです。でも興味がないときは何も感じないのでしょう。ノヴァークはCDを聴いてどうしても弾きたい作品があるのですが、輸入楽譜を注文しようとしても絶版と言われ、今のところ手に入らないのですが、なんとしても入手して弾いてみたいと思っています。
こんなにも突然、この世界に自分が溶け込めてしまったことは、“化学反応”が起きたとしか言いようがないのです。でもそれはあるジャンルが好きになったと言うこととは、少し違うと思っています。
言葉にするのはとても難しいことですし、私のまったく個人的な感覚なのですが、演奏というのはその作品の“形”を示していくという面があると思います。ただ理解力とテクニックと情感があればできるというものではなく、“形”を示そうとする作業の中にその人の個性が現れてくる。その作業がある意味では、演奏家個人の心の開放に、即つながるものではないかもしれない。少なくとも私にとっては、どのような作品を演奏すときも、最初から“私”というものを前面に出してしまったら、その作品に近づくことができない。その作品の世界に最大限の敬意を払って(?)演奏するということが私の理想ですし、そういう気持で演奏することが好きなのです。もちろん、それで自分の心が開放されないという意味ではありません。
でも例えばスークのある作品を弾いてみると、まったく敷居というものがなく、その世界に自分が溶けていくように感じるのです。“私”とその“作品の世界”の境目がない、その作品が作曲された“過去”と私が演奏する“今”との境目がない。“現実”と“幻想”の境目がない・・・、そんな感じがするのです。
この“化学反応”の原因(もと)はやはりまず、スメタナの「モルダウ」を弾いたことだと思います。“チェコの歴史が、魂が込められている作品”と言われますが、私たちにとっても“心のふるさと”のように感じられるあの作品を、自分で音にしてみたことはすごい経験でした。
それからあのノヴァー・ジーシェの修道院で弾いたバッハのプレリュード。あの時私は“ピアノを弾いた”のではなく、音楽が立ちのぼるのをただ感動して眺めていただけのような気がします。なんの“敷居”もありませんでした。
これからスークやノヴァークやフィビヒの作品を弾いていくのが、ほんとうに楽しみです。それに今まで弾いてきた作品も、何か新しく見えてくるような気がしているのです。
それにしても自分がこんなことを感じるなんて、チェコへ行く前には、考えもしないことでした。
明日の自分がどうなっているかなんて、分らないものですね。