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根津ピアノ

今年の初めだったと思いますが、甲府市のNさんから突然電話をいただきました。
「身延町の旧大須成小学校の物置から、根津ピアノと呼ばれる古いアップライトピアノが見つかったんです。それを修復して、今回その復元されたピアノでコンサートをしたいのですが、山梨ゆかりの志村さんにお願いできないかということになりまして。それで実際にそのピアノでコンサートが可能かどうか、一度身延町まで行ってピアノを見てほしいんです。」ということでした。
私は「ピアノを見せていただかなくても大丈夫です。やらせていただきます。」とお返事をしました。詳しいことはよく分からなかったけれど、何かそのお話からすごく温かいものを感じたし、そのアップライトピアノがたとえどうであろうと、コンサートそのものがとても意味のあるものになるという気がしました。
それに3月のカーネギーホールでのコンサートのために、超難曲の一柳作品に取り組む日々を送っていたそのときの私にとっては、6月に予定されるそのコンサートのことを考えるだけでも、何か緊張から解放されるような、ホッとできるありがたいもので、とても楽しみだぐらいに思っていました。
今になって振り返るとそれは、私にとってほんとうに大きな収穫のあるコンサートとなったのでした。

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根津嘉一郎という方のことは、山梨県の偉人として祖父母や両親から少しは聞いていたような気もしますが、実際にはあの青山の一等地にある大きな根津美術館の基を作った人物ということぐらいしか知りませんでした。
根津嘉一郎について、また根津ピアノと呼ばれるアップライトピアノについていただいた資料を元に、コンサートの中で私は次のように簡単に紹介させていただきました。

根津嘉一郎は、1860年に甲斐の国東山梨郡聖徳寺村に生まれました。1860年と言いますと江戸時代の末期、明治維新の真っ只中で、嘉一郎が生まれる3月前には、桜田門外の変が起こっています。
生家は「油屋」という屋号で油や雑穀などを扱う商家でした。嘉一郎は寺子屋で師匠が留守のときはその代理を務めるほど勉強ができ、江戸に出て勉学に励むことを望みましたが、家の跡取りとしてそれは許されませんでした。明治13年、21歳のときに家出同然に東京に出ましたが、やはり学業途中で故郷に連れ戻されました。
その後の嘉一郎は自由民権運動の中、地方政治に関心を持ち、政治家を目指すようになります。県会議員になると、土木業者と県当局の癒着を暴露して、当初の予算の3分1で工事を達成させるなど大活躍をします。その後村長に立候補して当選します。ある年、豪雨が続いて笛吹川が氾濫したときには、村のご神木を伐採して水を防ぐことを決断し、そのとっさの判断が村を救ったこともありました。
そうした中で同じ郷里の先輩であり、横浜開港を機に生糸や綿製品などの貿易を手がけて大成功を収めた人物、若尾逸平との出会いは大きな転機となりました。若尾逸平は嘉一郎に「乗り物」と「灯り」の株を勧めました。乗り物とは「鉄道」、灯りとは「電力」のことです。「鉄道と電力」は明治時代の事業の中心で、韮崎市出身の小林一三も関西で鉄道事業を起こし、後に電力業界に転じています。
嘉一郎はまず東京電灯(今の東京電力)の株を買占めていき、若尾逸平や雨宮啓次郎と組んで甲州財閥連合を作り、明治29年には東京電灯の経営権を手にします。その手腕を見込まれて、経営が破綻しかけていた東武鉄道の社長に就任し、見事に再建を果たします。東京の都心から日光まで電車を走らせるという夢を実現し、日光の参拝客をそれまでの3倍以上に増やすことに成功しました。
その後も東京鉄道、南海鉄道、西武鉄道、秩父鉄道などの取締役に就任、富士身延鉄道、南朝鮮鉄道を設立するなど、経営に関与した鉄道会社は24社におよび、「鉄道王」と呼ばれました。日の出セメント、東京紡績を設立、館林製粉、日清製粉の社長も務め、また衆議院議員にも当選しています。
けれどもこのような経済人としての並外れた手腕を発揮するだけでなく、明治の経済人の多くが持っていた、「お金儲けよりも、人々のためになること、社会奉仕の精神が大切である」という考えを嘉一郎も持っていました。「公共事業の実現を夢みながら、文化人としても超一流」というのが、明治の経済人の理想でした。小林一三は宝塚歌劇団を創設しましたが、根津嘉一郎は武蔵高等学校(現在の武蔵大学)を創立。また優れた美術品収集家、茶人でもあった嘉一郎が収集した多くの東洋古美術品は、後世への大きな遺産となりました。嘉一郎が亡くなった昭和15年、港区青山の邸宅内の自然庭園と四棟の茶室とともに、それらの美術品を元に根津美術館が設立され、今日に受け継がれています。私立美術館としては多数の国宝、重要美術品、重要文化財を保有するわが国有数のコレクションであり、現在も多くの人々を楽しませています。
このような根津嘉一郎の文化事業の一つに昭和8年、嘉一郎72歳のときですが、愛する故郷山梨の未来を担う子どもたちへの数々の贈り物がありました。人体模型、顕微鏡、ミシン、そして全県下の小学校に贈られた200台のピアノです。その中の1台が今ここにあるこのピアノです。
ここ身延町の旧大須成小学校に眠っていたのだそうです。75年経っていますが、大変保存状態もよく、また当時のピアノの温かい音をそのまま残す素晴らしい修復のおかげで、このように甦りました。
今日はこのピアノの音を存分に楽しんでいただきたいと思います。

並外れた大人物であったことに驚き、また起業家が「お金儲けよりも、人々のためになること、社会奉仕の精神が大切」という信念を持っていたということが、遠い世界のことのように感じられました。
一方、ここでは省略しましたが、明治42年に渋沢栄一を団長とする渡米実業団に加わってアメリカを旅行した折、大実業家ロックフェラー氏に会い、氏が財団を設立し多額のお金を世の中のために使っていることに感銘を受け、強い影響を受けたということがありましたが、ロックフェラーと言えば同時代“鋼鉄王”と呼ばれ、やはり財団を作り慈善事業や文化、教育に巨額の大金を投じた実業家カーネギーがいるわけで、ニューヨークのカーネギーホールも1891年にカーネギーによって建てられたものであることから、私は自分で勝手に何か糸がつながったような気持ちになっていました。

コンサートの前に何度か自分で作ったこのコメントを声に出して読んでみたのですが、「愛する故郷山梨の未来を担う子どもたちのへの~」のところに来ると、不覚にも泣けてきてしまって困りました。
すべての小学校にあったということは、当然私の両親も根津ピアノに触れているはずです。音楽を志す限られた子どもたちではなく、小学校を通してすべての子どもたちに贈られたということに、私はとても心打たれるものがありました。

コンサートの内容については、“誰でも知っている聴きなれた親しみやすい曲を。懐かしい日本の曲も入れてほしい。一部、身延町のホールにもともとあるスタインウエイのフルコンサートピアノと、弾き比べるという事も入れてほしい。”という希望がありました。
コンサートはNさんが所属する印刷会社、甲府の「ヨネヤ」さんと身延町、身延町総合文化会館の共同主催。春になって送っていただいたチラシを見たときは、「これは良いコンサートになる」と改めて思ったものでした。

私の方から提案したかったことは、根津ピアノのコンサートではあるけれど、会館が持っているスタインウエイでも、いわゆる“弾き比べ”というだけでなくきちんと一曲弾かせてほしいということでした。これは正直言って、もしアップライトピアノの演奏だけで一つのコンサートを成り立たせるのが難しいときに、やはりコンサートピアノの音を聴いていただくことも必要なのではないかということがありました。
でもそれだけではなく、このコンサートの趣旨とは一見関係のないことだったかもしれませんが、チェコのテレジン市にピアノを贈ったことを初め、色々なピアノ事情(!)に常々考え込んでしまうものがあったからです。

例えば私が少しでも触れることができたチェコやポーランドというような国で、どれほどまともなピアノがないか、あれほど音楽の深い歴史を持つ国で、「これってピアノ?」と言いたくなるようなものが当たり前に使われている現実はナンナンダ!と、誰もが思うでしょう。私がデュオを組むチェコのヴァイオリニスト・パズデラさんは、日本でツァーに出ると時々急にうつ状態になってしまって、どうしたのかと思っていると、舞台のピアノを手でなでながら「こんなピアノがチェコの町に1台でもあったらなあ。」と言うのです。
私の調律師の方から聞いたのは、やはりある旧東欧の国から来た若手のピアニストが日本でコンサート・ツァーをして、それが全部終わったとき、彼は自分が弾いた何ヶ所かのピアノは、同じ1台のピアノをスタッフが彼のためにすべての会場に運んでいたと思っていたということです。日本中のどこにいってもスタインウエイのフルコンサートピアノがあるなどということが信じられなかったというのです。
私もだいぶ前ですが北海道の北見の市民会館でリサイタルをさせていただいたとき、2台あるスタインウエイのどちらかを選びことが出来、そのほかにもベーゼンドルファーのセミコンサートが入っていて、それで「今年度ピアノのリサイタルは、志村さんだけです。」と聞き、そのときはビックリしましたが、日本中で同じことが起きているということがあとから分かってきました。“ピアノが活かされない”ことはほんとうに残念です。“活かされる前提なしに”ピアノが用意されているということでしょうか。
そんなことをいつも思っていた私はコンサートに来てくださる人たちに、根津ピアノの存在と一緒に、身延町の会館には、世界のたくさんの国々ではめったにお目にかかれないようなピアノも置いてあるということも、分かっていただきたいと思ったのです。

ということでプログラムはモーツァルトの「トルコ行進曲」、ショパンのマズルカとノクターン、チャイコフスキーの「トロイカ」と「舟歌」、ドビュッシーの「月の光」、そしてベートーヴェンの「エリーゼのために」を両方のピアノで弾き比べ、「悲愴ソナタ」全楽章をスタインウエイで弾く、そして“懐かしい日本曲”というリクエストに応えて三宅榛名さんの「赤とんぼ変奏曲」をまた根津ピアノで弾くというものになりました。

Nさんからは準備の状況がメールで入ってきましたが、「今日は何々の集まりに行って、何枚チケットが売れました。」という感じで、ほんとうに丁寧に広げていることが良く分かりました。私の親戚の人たちも一生懸命協力してくれ、コンサート直前には300人近い入場者が見込まれていました。

コンサートは6月8日。甲府から身延町までは車で連れて行っていただきましたが、後半の富士川沿いの道が素晴らしかった。山梨でも私が知っている父の実家の近くの信玄堤で有名な釜無川や、母の実家の近くの笛吹川とはまったく違う急流の川で、(釜無川の下流が富士川なのだそうですが)コンサートでなければ車から降りてしばらく川を眺めていたいと思いました。
身延は日蓮聖人によって開かれた日蓮宗の総本山久遠寺の地。時間がなくて久遠時にお参りすることもできませんでしたが、町全体がほんとうに奥深い歴史を感じさせられるものでした。今は過疎化が進んでいるということも伺い、落ち着いた雰囲気をただ喜んでばかりもいられないのかもしれませんが、その自然と文化の豊かさに溶け込むような立派な総合文化会館が建っていました。

舞台には真ん中にアップライトの根津ピアノ、上手側にスタインウエイのフルコンサートが置かれていました。Nさんからこの根津ピアノの修復に携わった内藤楽器の若い社長さんに紹介していただきました。75年前に当時のお金で一台約600円(現在の金額で約300万円と考えられる)200台のピアノが、甲府の駅に到着したときもこの内藤楽器さんが関わっていらしたそうで、当時の写真入りの新聞記事が残っていました。
チラシの裏に載せられた社長さんコメントによると、このピアノは昭和6~7年に製造された「ヤマハピアノNo.1」モデルで、本格的な国産のピアノ製造が開始されて30年ほど経過した時期のものだそうです。日本楽器製造(現ヤマハ)が当時世界のピアノ生産の中心である欧州のピアノメーカー・べヒシュタイン社から技術者を招き、昭和4年頃までピアノ製作の指導を受け、更なる楽器としての質の向上を図った頃のピアノらしく、良い素材・職人による手造り、しっかりコストをかけて造られたピアノであることが支柱の太さ・響盤の材質など様々な点から伺われるということでした。また製造から70年以上経っているにもかかわらず様々な幸運に恵まれ保存状態がよく、今回の修復の上でも当時の音色を再現するにあたって重要な部位「響盤」「支柱」「フレーム」を当時のまま活かすことができ、最終調整も当時の音色をそのまま素直に活かしたということでした。

このコメントも読ませていただき、Nさんからも「なかなかいい響きなんですよ。」と聞いてはいましたが、やはり私はアップライトピアノが実際に響きとして聴く人を満足させる音を出すということは、正直言って考えられませんでした。響きとしてどうであっても、このピアノの由来やこのコンサートの成り立ちからして、良いものになるだろうと思っていましたが。

ですから弾いてみたときはほんとうに驚いたのです。もちろんホールの良さもありますが、ほんとうに魅力的な音でした。とにかく響きが豊かでした。小さな体を無理なく響かせやわらかく、そして不思議な切れ味がありました。指に伝わってくるタッチの感覚はグランドピアノとは当然違うのですが、音そのものに魅力があるのでそのことが気にならないのです。もしこれが20年前の私だったら、タッチに気をとられ、「やっぱりアップライトでは無理だ」と思ったかもしれませんが。
Nさんから是非ドビュッシーの「月の光」を根津ピアノで弾いてほしいと言われたときには内心、「あの曲なんか一番響きが重要なのに、あれをアップライトで弾いたってどうなるものか」と思っていたのですが、演奏しながら思わず息をのむような音色でした。
リハーサルの間に隣のグランドピアノのふたを全開にしてくださると、なんとそのふたの反響に助けられ、いっそう響きが豊かになりました。
元のピアノの素晴らしさと、今回の修復に携わった方々の確かな技術と熱意が伝わってきました。

コンサートの後半、「エリーゼのために」で弾き比べたあと「悲愴」をスタインウエイで聴いていただき、そのあとまた根津ピアノに戻るところが一番心配でした。どうしたってやはり見劣り(聴き劣り?)してしまうのではないかと。
スタインウエイも私好みのとても良い楽器でしたが、心配はまったく無用でした。「赤とんぼ変奏曲」を弾き始めたとき、その違いが完全に両方の楽器の「個性」の違いに聴こえたように思います。あんなことがあるのでしょうか。

聴衆も素晴らしかった。ほんとうに楽しんでくださったと思います。
私は普段アンケートの数などさほど気にはしないのですが、それでも「これ今日のアンケートです。」と渡された分厚い束を見たときは、ほとんど目を疑いました。300人のお客様のうち200人ほどの方がアンケートを書いていってくださったのです。
「ほんとうに温かい時間でした。」と声をかけてくださった方もいらっしゃいました。
私もあのコンサートのことを一言で言うとすれば、「温かい」という言葉になると思っています。あのピアノの修復からコンサートの準備まで、関わった方の思いがそういうところに向かっていたように思えるし、75年前「山梨の未来を担う子どもたちのために」200台のピアノを贈った根津嘉一郎さんの思いがそうであったと思います。

もう一つ私にとって大きな収穫となったのは、このコンサートは「根津ピアノコンサート」であり、舞台上で演奏し語るのは私一人でしたが、主役は「ピアノ」であったということです。これは素晴らしい経験でした。
私は普段から「私が主役」と思って演奏はしていないつもりです。もちろん力は足りませんが、「作品を活かす」ことにかけているつもりですし、ほんのわずかでもほんの一瞬でも、音楽が聴いてくださる方一人ひとりの「心」に関わることができれば、それが最高と思っています。
このコンサートでは「作品を」という以前に、「根津ピアノを」活かすということがあり、ある面ではそれは「制約」ということになるのかもしれませんが、あのときの「すべてを聴衆に渡すことができた」ような満足感は特別なものでした。
「根津ピアノ」に感謝です。