「テレジンのピアノの会」の報告会でもお話したのですが、10年前に約千人の方々の寄付によってお贈りしたあのピアノが、実は数年間、それはひどい状態になっていたのです。
2000年にお贈りして私がオープニング・コンサートをさせていただいた時は、“飛び切り上等のヤマハのC7”でした。美しい音色で、タッチも良い仕上がりでした。それが4年後の2004年、ちょうどウルマンやクラインなど、最後まで収容所の音楽活動を支えていた人たちが全員アウシュビッツに送られた10月16日の、その日からちょうど60年という記念のコンサートをさせていただくために行ったその時は、以前の音からは想像もできない割れ鐘のような音になり、音程もめちゃくちゃになっていたのです。
私だけ少し早くテレジーンに入り、確か丸二日そのピアノで練習をしたのですが、最初の印象がしっかり残っていた私は、あまりのことにショックを受け、“日本から贈られた素晴らしいピアノで記念のコンサートをさせていただく”という大役を、どうこなしたらよいのか、テレジーン市にとっても大きな行事であり、内外から様々な立場の方々が招待され聴きにいらっしゃるそのコンサートで、どういう演奏ができるのか、不安の固まりになってしまいました。
当時ドイツからいらして、テレジーンでボランティアのようなことをされていたグリムさんという、現役時代はチェリストとしてオーケストラで弾いていらした方は、私の練習を聴いてさかんに、「あのピアノはおかしい」とおっしゃいましたが、私自身その事実を受け止めることができず、「そうですね」とも言えないし、他には誰も気がついていないそのことを、誰かに話すこともできませんでした。
コンサートの数時間前に調律の方がいらしてくださり、一通り調律をしてくださって弾いてみたら、音色はあまり変わりませんでしたが、音程がきちんとなった分かなりまともになり、私が弾いてみたのを聴いて調律師の方も喜んで帰られました。けれどほっとしたのも束の間、そのあと弾いていると、音程がみるみる狂って行くのです。あんなに急激に音程が狂っていくピアノを弾いたことはありませんでした。“何かが狂ってしまっている”と思いました。けれどコンサートでは、“日本から贈られた素晴らしいピアノ”を弾くピアニストでなければなりませんでした。
私自身はあのピアノで弾き通すだけで精一杯でした。けれども会場は記念コンサートの熱気も高まり、コンサートのあとは記念品の贈呈など式典のようなものもあり、たくさんの方が喜んでいらっしゃいました。「ピアノの会」の方々をはじめ、日本からいらした数十名の方たちもたいへん喜んでくださり、救われました。
ピアノの先生をしていらっしゃるというグリムさんの奥様も、たまたまドイツからいらしていて前日もお会いしていたのですが、コンサート後美しい笑顔で、「あなたは素晴らしいピアニストね」とおっしゃってくださいました。見るからに穏やかで、やさしさと奥ゆかしさの感じられる素晴らしい女性でしたが、そう言われたとき私は、“この方は、私があのピアノと格闘しながら何とか自分の音楽を伝えたいと、必死で演奏したその気持を分ってくださったのかなあ”と思いながらも思わず、「ほんとうにそう思いますか?」と訊いてしまいました。
ベルリンからいらしていた女性の歌い手さんたちは、「あなたの演奏は素晴らしかったけど、あのピアノの音程には体がねじれてしまいそうだった。あなたはよくあのピアノで弾いた。」と口々におっしゃいました。
あのコンサートに向けても、当然のことではありますが、自分の力の限りを尽くして何ヶ月を準備をしていました。テレジーンの収容所で音楽活動を展開していた、豊かな才能と音楽への情熱を持ち、音楽家としての使命をしっかり感じ取っていたあの人たちは、ホロコーストの犠牲にならなければその後の世界の音楽界を、リードしていったであろう人たちです。あの名指揮者カレル・アンチェル、ハープシコード奏者のズザナ・ルージイチコヴァ、2000年のオープニング・コンサートのときにイスラエルから駆けつけてくださった、ピアニストのエディト・クラウスさんなどわずかな生還者の方々のその後の活動を見れば、それは明らかです。
私があの記念のコンサートをさせていただくなど、本来ならばありえないことなのです。ですから“自分のすべてをかけて演奏する”ということ以外、私にできることはないと思っていました。でもあのピアノの状態でそれがすべて出せたとはとても思えず、“どうしてこんなことになったんだろう”という思いが膨らむばかりでした。
その思いを整理するのにはだいぶ時間がかかりました。1・2年経ってからでしょうか、“あの時私は、自分がやろうとしたことができなかったと嘆いたけれど、命まで奪われてしまった人たちの気持を、どう受け止めようとしているのだろう”と。命まで奪われた人たちの気持を受け止めることなど、とてもできない自分を認めるしかありませんでした。
あのテレジーンでのコンサートの翌年には東京で、「嘆きの歌ではなく」と題してテレジーンの作品を中心としたリサイタルもでき、クラインのソナタは機会あれば演奏しましたが、他にもたくさんやりたいことがありましたので、“あのピアノがあんなことになってしまったのだから、もうテレジーンに行くことは考えまい。”と思っていました。
1997年の初めてテレジーンを訪れたときのギデオン・クラインとの出会い、1999年のテレジーンでのリサイタル、その後のピアノ贈呈のための運動。その間たくさんの人たちが、私たちのテレジーンへの思いを共有してくださり、贈ったピアノ。そのこと自体素晴らしいことだった、それでいいのだ。どんなに一生懸命取り組んでも、思い通りにはならないことがあって当然なのだ。一生懸命できたということ自体が、素晴らしいのだ。ほんとうに恵まれているのだ・・・と思いました。
そんな気持が動かされたのは、2008年にムジカ企画の旅でテレジーンを訪問し、市民の方たちや子ども達と交流をしてきた何人かの方から、「チェホバ市長さんが、もう一度志村さんに来てほしいとおっしゃっていらした。」ということを伺ったときでした。あちらで音楽を勉強している青年がピアノを聴かせてくれて感激したということも聞きました。「それであのピアノはどんなでした?」と思わず伺うと、「そんなに悪い感じとは思わなかったけれど、調律はしていないのかなあと思いましたね。」という返事に、“やはりあのままなのだ”とピンときましたが、最初のリサイタルのときから、あんなにも温かく迎えてくださったテレジーン市民の方たちが待っていてくださるのなら、もう一度行ってみよう、あのピアノのあの状態を覚悟して行けばいいのだと、思ったのです。
そう思ったときには、それまでのテレジーンの取り組みとは何か違う気持が私の中にありました。一言で言えば、“テレジーン市民が喜んでくださる楽しいコンサートをしよう”ということです。
テレジーン収容所の音楽活動を見たとき、あんなにも素晴らしい音楽家たちが、命を奪われたということに目が向きがちですが、彼らが苦しい生活の中で、演奏できることが、作曲できることが、そして多くの人たちにとってその音楽を聴くことが、どれほど大きな喜びだったか、それがとても大事なことだと思います。あのピアノも、その喜びを生み出すものとしてお贈りしたはずです。だからもう一度行って、とにかくみんなが喜びになるコンサートをしたいと思いました。子どものためのコンサートもしたいと思いました。
そんな発想から生まれたのが、チェホバ市長に語っていただく「ピーターと狼」と、「モルダウ」を弾くということでした。
そしてピアノの状態について「テレジンのピアノの会」の運営委員の方々には、「実際かなりひどい状態です。あそこまでひどくなったら、元に戻ることはまずないと思います。」ということをはっきりお話していきました。皆さんとても心配され、それでもできる限りのことはしていこうと、何回も会議で話し合われ、ムジカが親しくしていらっしゃるヤマテピアノさんに相談し、“やはりそれは演奏家自身が働きかけていくのが効果的”というアドヴァイスをいただき、またヤマハの方もご紹介いただき、会のほうからも、そして私自身もお電話でお話し、何とか良い調律師を派遣してほしいとお願いしました。しばらくして、とても信頼のおける仕事をしている調律師に連絡がついたという知らせがヤマハから届きました。少し希望が持てる気がしました。
それにしてもあのときのムジカと「ピアノの会」の委員の方々の粘り強さには、感動しました。もちろん今までもそうであったからこそここまでやってこられたのですが、こんなにまで皆がエネルギーを注いでいる、それに応えなければという気持も涌いてきました。
5月8日はテレジーンの開放記念日。10年前もその日にピアノをお贈りし、そして今回もその日に私のリサイタル、そして9日には子どものためのコンサートが組まれました。5日にあちらの旅行会社の社長さんで通訳のクリスティーナさんと一緒に、テレジーンに行きました。チェホバさんとの練習もしなければなりません。
そしてあのピアノを弾いてみたとき、信じられないことが起きていたのです。
前の状態に“戻った”のではなく、それ以上の素晴らしいピアノになっていました。音色が深く豊かで、何となく“チェコ・フィルのような音だ”と思いました。
しかも極自然にそうなったという感じでした。私を含め、大勢の人たちの気持が通じたと思いました。奇跡としか言いようがありませんでした。4月に調律師さんが一度いらして、長い時間かけて調整していらしたと伺ってはいましたが、よほどの人だと思いました。
8日のリサイタル当日、その調律師さんにお会いしました。まだ若い方でした。私は「あなたの素晴らしい仕事には、感謝しきれません。ほんとうに信じられません。」と興奮して心からお礼を言いました。すると彼は、「4月に来て6時間かけて色々やってみた。何々は壊れていたし、何々の部品は取れていたし、何々はダメになっていて、ない部品は自分で作った。ほんとうに苦労した。温度の急激な変化がかなりダメージを与えた。」というようなことを坦々と話してくださり、私もそのご苦労はよく分ったのですが、たとえそのような作業をしてくださったとしても、あの“音楽そのもののような音色”が生まれていることの答えとは思えませんでした。それで言葉がだめな私も必死で、「このピアノはもともと素晴らしく美しく透明な音色を持っていました。でも今はそれに加えて、チェコの文化の深さのようなものを感じるんです。」とお話しましたら、「私はモラヴェッツのやり方でやっている。チェコ・フィルハーモニー(の本拠地)に置いてあるスタインウエイのフルコンサートピアノにしている仕事とまったく同じことを、私はこのピアノにした。」とおっしゃるのです。私はそれでほんとうに納得がいきました。モラヴェッツというピアニストは、1930年生まれのチェコの巨匠です。私も名前だけは知っていました。(帰国してからすぐCDを手に入れ聴いて、また納得したのですが)
ヨーロッパのピアノ事情を知る方がよくおっしゃることですが、あちらにはなかなか良い調律師さんがいなくて、調律(正確には調整と言ったほうが良いのですが)に満足することは少ないようです。私の今までのチェコでの経験から言っても、そのような印象がありました。でもこんな人がいるのだ、こんな文化がしっかり受け継がれているのだと、チェコの文化の深さを改めて感じました。
市長さんも「ピアノはもうどこにも持ち出させません。あの調律師は素晴らしいです。」とおっしゃるのです。一度広場の向かい側の教会でコンサートをしようと、そこに運んだときにかなりのダメージを与えてしまったらしいのです。それにしてもあの調律師さんの素晴らしさを市長さんも分っていらっしゃるのには驚きました。それにあのピアノのことを大切に思うお気持を、十分にお持ちなのだということが再確認できました。
私より2日遅れその日の夕方プラハに到着された皆さんには、空港に迎えに行ったクリスティーナさんから、「ピアノはビロードのような音になっています。」と報告されたそうです。
これからも何があるか分からない。でもこの6年の結果としての今回の5月のテレジーンは、“乗り越えられないことはない”ということを、私たちに教えてくれたような気もします。
ピアノは10年かかってようやく、ほんとうにテレジーン市に贈られたのかもしれません。