先月末(8月31日)に「テレジンのピアノの会」主催の報告会があり、この5月のテレジーンのコンサートのことなど、演奏とお話で報告させていただきました。
あれからあっという間に4ヶ月が過ぎ、その間の忙しさはかなりのもので、このブログにも書きたいことはたくさんあったけれど、とりあえず《ESSEYS》にふたつの文(チェコの旅を終えて・長崎大会―テレジーンから長崎へ)を入れました。
それでもやはりまだ書き足りないことがありますので、いくつか余話を書いておこうと思います。
余話 その1
5月の7日、8日、9日と続いた3つのコンサートの初日はプラハ郊外での、ヴァイオリンのパズデラさんとのデュオ・コンサート。
3日に日本を発ち、4日から練習。2月に来日されたパズデラさんと東京でもデュオ・コンサートをしていたので、その続きのような感じではありましたが、シュニトケの「古い様式による組曲」、ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第7番、ドヴォジャークの「ロマンス」と「マズレック」がデュオの曲目で、簡単なものではありませんでした。
そう言えば日本を発つ前は、家にいる日は午前、午後、夜とこの3つのコンサートの練習をしていたわけで、今思えばかなりの体力と気力が必要でした。でもどこも手を抜く気はなかったし、すべてをかけきっていました。
だからあちらでの練習の3日間は、かえって何かほっとできる時間がたくさんあり、練習の合間には行ってみたかったヴルタヴァ河畔のエネシュカ修道院に行ったり、カレル橋を中心に好きなように歩き回ったり、何もプラハで入らなくてもいいスターバックスでコーヒーを飲んでみたり、パズデラさんに案内されてそれは美しいワルトシュタイン候の庭園を散歩したり、素晴らしい時間を過ごしました。言うまでもなく、極上の時間はパズデラさんとの練習でしたが。
驚いたのはプラハの物価の上がったこと。13年前に初めて行ったときは、大体日本の4分の1と思ったのを覚えていますが、今はほとんどのもの、たとえばスターバックスのコーヒーやちょっとした食事にしても、日本と比べて少し安いかな?ぐらいで、チェコの人たちの収入はそれだけ増えているのだろうかと考えてしまうぐらい、上がっていました。ただトラム(プラハ中を走り回っている路面電車)や地下鉄のチケットはあまり変わっていないようでした。
それにしてもそのトラムが、見た目は日本でもまだ少し走っている路面電車とそんなに違わないのに、恐ろしい揺れ方で、もっと慣れれば平気なのかもしれませんが、こちらの予想外の揺れ方に何回ひっくり返りそうになったか分りません。その度にパズデラさんに“Be careful!”と言われるのですが、何しろ予想に反しているのです。
コンサートにはパズデラさんがファースト・ヴァイオリンを務めるシュターミッツ・カルテットのメンバーの方やお弟子さんたち、知人の方々がたくさんいらしてくださっていました。かなり久しぶりのプラハでのデュオ・コンサートでしたので、私は少し興奮気味でした。
最初の曲目のシュニトケの作品は何とも言えず洗練された音楽で、また決して易しくはなく、程よい緊張感でなかなかいい感じで進んでいたのですが、一番難しいフーガもすごくいい感じで行けそうと思った瞬間、突然「バチッ」という音がしてヴァイオリンの音が止まりました。“弦が切れた”と分りましたが、今まで私はそういうことに出会ったことがなかったし、とにかく音楽に入り込んでいたので、ハンマーで殴られたようなショックを受けてしまいました。パズデラさんはお客様に「弦が切れたので張ってきます。」と静かに、でもはっきりと伝えると、私を置いてさっさと引っ込んでしまったので、私は“ここで動揺してはいけない”という気持と、“こんな舞台の上に一人残されちゃってどうしたらいいのよ”いう気持でいたのですが、お客様はすぐにお互いにおしゃべりを始めてその場の空気は和やかで、パズデラさんもすごい速さで弦を張り替えて戻ってきてくれ、助かりました。
満場の拍手に迎えられ「ではフーガから演奏します。」というパズデラさんの言葉で、まるで何事もなかったように演奏を再会したのですが、図らずも実に新鮮な音楽の表現が生まれていったように思います。
まあ何事も経験なわけで、今までそういうことがなかったほうがおかしいのかもしれません。切れた弦は記念にいただいてきました。
今度はいつパズデラさんと共演できるのかなあと思います。