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サイトのこと

半年前、1年前のことが遠い昔のように感じられる忙しさの中で、ほんとうに遠い昔のことを、ふと思い出す時がある。

20年ほど前、7歳の女の子がお母さんに連れられて、「2週間前にピアノを買いました。」と、私のところにピアノを習いに来た。教える経験はなくはなかったけれど、まったく初めてピアノを弾くという子を教えたことはなかったので、習う方も緊張していたかもしれないけれど、こちらもいったいどうしようかと、内心途方に暮れた。
その頃私は、自分の奏法の面で、変えていこうとしていたことがあり、それが身につけばそれまでよりずっと、自然な演奏ができるはずだという手ごたえを感じていた。私はその弾き方を、まだ小さい女の子に最初から教えていった。
器用に弾くわけではなかったけれど、私の教えることを真っすぐ受け止めてくれて、こちらも驚くほどどんどん進んでいった。それは、私がやろうとしていることが間違っていないという証拠でもあり、うれしかった。


いわゆる初心者のための教則本の音楽にあきたらなくなって、バッハのインヴェンションを弾き始めたときが、彼女にとっても私にとっても大きなジャンプとなった。あれが彼女にとっての「音楽との出会い」だったかもしれない。たった1分か2分のインヴェンション1曲を弾くのに、どれほどの集中力とエネルギーが必要か身を持って知った彼女は、1曲弾き終わると思わず「ハーッ」と全身でため息をつく。良きものに触れた喜びに顔を輝かせて。自分の息子たちの教育のためにバッハが書いた練習曲が、300年経ってもこうして人を育てる力を持っていることを目の当たりに見て、私も感動した。
毎週のレッスンがそんな感じでどんどん進むので、その子が将来音楽の道に進むのか、音楽大学を目指すのか、そんなことは何も考えず、ただ私が魅力を感じる作品を、「まだ無理かもしれない」などと思わずに、どんどん弾いていって、二人で「いい曲ねえ。素晴らしいわねえ。」と感激していた。中学受験の時も高校受験の時もほとんど休まずに弾いていた。
もし音楽大学を受けるなら、一応芸大を目指しても良いかなあと思うこともあったが、私は彼女には何も勧めなかった。良い音楽に出会って魅力を感じ、構成の素晴らしさを知り、自分が感じるものを表現するためには、忍耐も努力も必要だと知っていく姿を見ているだけで、私は満足だった。
だから「大学は理科系に行きます」と聞いたときも私は、「そうか、やっぱりそういうタイプだから、ああいう知的な音楽作りをするんだな」と思い、少しもがっかりしなかった。どのような道に進むにしても、子ども時代にあれだけ音楽に打ち込んだことが、彼女の人生に必ず役に立つと思った。
大学に行っても相変わらず、大曲に挑んでいた。その頃になると彼女の方から、ベートーヴェンの「熱情ソナタ」や「エロイカ変奏曲」など、「弾きたい」と提案があった。「エロイカ変奏曲」を「カッコいい」と言うのには驚いた。
そんな中ある時、「大学でホームページの作り方を習ったので、先生のホームページを作らせてもらえませんか。」と言う。その方面に非常に遅れていた私は、ホームページというものがどういうものかもよくわからず、「お金かかるんじゃないの?何か難しいことがあるんじゃないの?勉強で忙しいのにそんなことできるの?」と心配したけれども、「大丈夫です」ということだった。特に彼女のお母さんは、「あれだけ長いこと教えていただきながら、音楽の道に進まなくて、ほんとうに申しわけない。せめてものお詫びです。」というようなことを何回も言ってくださった。私は彼女が理科系に進んだことを心から喜んでいたので、なんだかこちらの方が申しわけないような気分だったが、お願いすることにした。
それからはコンサートのチラシができると、レッスンのときに「お願いね」と渡しさえすれば、ホームページに載せてもらえた。私自身はパソコンも持っていなかったので、自分のホームページを見ることはめったにないという状態だったけれど、よく「ホームページ見てますよ。生徒さんが作っていらっしゃるんですね。」と声をかけられた。
数年前、彼女が転勤で大阪に移るまで、ずっとお世話になった。ピンと来ていなかったのは当の私だけで、この初代ホームページは私の演奏活動をずいぶん支えてくれていた。

児玉温子さん、長い間ほんとうにありがとうございました。

一昨年の夏のある日、何気なくインターネットに自分の名前を入れて検索してみると、ブルーの色調の見たことのない美しいサイトが現れ、「志村泉さん[音楽の森]コンサート」という記事があった。その少し前に念願かなって実現した、子どもと大人のためのピアノコンサートだ。
使う言葉も表現の仕方も実に平易なのに、ドキッとするほど核心を突いた内容で、私自身も言い表せないような、私のそのコンサートへの思いまでが、一聴衆の感想として述べられていた。「一体誰だろう」と思ったがまったく見当がつかない。サイトの名前は「Bugsなうさぎの憂鬱」。これもまったくわからない。実に不思議な気持ちだった。
1週間ほどして突然、「アンナちゃんがウサギを飼っていると言っていなかったかなあ。」と思った。子どもの頃から一番仲の良かった従妹。
子どもの頃何が楽しみと言って、両親の実家のある山梨に行くことが一番の楽しみだった。山梨に行くということはピアノの練習から解放されることでもあったし、甲府に住む従妹に会うことは、何か特別のことだった。会うと10分ぐらいは犬のようにじゃれあい、すぐにけんかもした。ものすごく頭が切れて、ついて行けないこともあった。
笛吹川を越えたところの古い祖父母の家に一緒に行くと、そこはもう天国だった。お蔵を探検すると、明治時代か大正時代の米びつや茶碗がたくさんあった。母屋のお蔵のモスグリーンの服を着た古い大きなフランス人形は、すごく怖かった。拾った枝に紐をつけ、するめを縛ったもので、お泉水のザリガニを100匹も釣って、天ぷらにして食べた。笛吹川の土手で山のように土筆をとってくると、祖母が卵とじにしてくれた。庭に干してある大きな梅干をどれだけ食べられるか競争して、20個も食べたこともあった。夜にはたくさん集まった従兄妹たちで創作劇を演じると、祖母や私たちの母親がひっくり返って笑ってくれた。
東京の大学に入った従妹は私の家のそばのアパートに住むようになり、やはりよく会った。
映画とロックにものすごく詳しく、特にエルビス・プレスリーには半端でなく入れ込んでいた。プレスリーが亡くなったというニュースを聞いたときは、彼女がどうなってしまうかと気が気ではなかった。そのときは何とか持ちこたえていたが、一年後にはメンフィスまでお墓参りに行った。
「インちゃん、コンサートに行こうよ。」と誘ってくれて、中野サンプラザに「マンハッタン・トランスファー」という男女4人のコーラスを聴きに行ったことがある。あれはかなりのカルチャーショックだった。とにかくクラシック一辺倒だった私にとって、PAを通した音(声)に自分が感動すること自体、信じられないようなことだったし、たった4人のコーラスがあれほどの世界を作ってしまうプロの技に、圧倒された。
やはりその頃、私の妹と3人で渋谷の焼肉屋さんに行き、動けなくなるほど食べたことも忘れられない想い出だ。最後には店員さんが私たちのことを気味の悪いものでも見るような表情で、新しいお肉の皿を持ってきてくれた。帰ろうにももう動けなくなり、仕方がないので、しばらく休んでいこうということになり隣の喫茶店に入って、またそこでアイスクリームを食べた。たぶん今までの私の生活の中で一番たくさん食べた日だ。
職場で素敵な男性と出会い、結婚してからも家が近かったので、長男のT君は小学校に上がる頃の数年、私のところにピアノを習いに来て、発表会ではピアノだけでなく、「モスラの歌」を一人歌った。そのT君も今ではお父さんと同じW大学の学生さんだ。長女のAちゃんも大学生に。
二人の大学生の母である彼女が、自分のパソコンの部屋を持ち、かなりはまっている。ご主人は、「家の奥さんがパソコンに向かったら、いつご飯になるか分からない。」とぼやいているという話も、聞いたような気がした。
「そうだ、あのサイトは彼女に違いない。」と確信して訊いてみたら、やはりそうだった。しかも「今、パソコンの本を書いていて、たいへんなのよお。」と言う。自分のエネルギーをひとつのことに集中して、やっとこさ生きている私から見ると、「なんかすごいなあ」と思う。
それにしても灯台下暗し。止まっているホームページをどうしたらいいのかとずっと考えていた私は、さっそく彼女に頼んでみた。乗り気になってくれて、あっという間に新しいホームページが立ち上がったのには驚いてしまった。
「インちゃんの全体像が分かるためには、公開の演奏だけじゃなくて、小さな仕事も載せた方がいいよ。」という意見にも大賛成。どんな小さなコンサートでも、どんな少ない聴衆でも、聴衆が子どもであろうと大人であろうと、そのときの自分の精一杯を出していく―ということしか、私が自慢できることはないかもしれないのだ。
それに自分にとっての記録にもなるので、スケジュールには出来る限りすべての演奏を載せることにした。
色々感じることがあっても書いている暇もない中で、気が向いた時には書きとめておこうという気持ちで、このブログも作ることにした。
管理人さんには相当なお世話をおかけすることになりそうだ。

森田アンナさん、末永くよろしくお願いします。

というわけで新しい公式サイト、そしてブログをスタートさせることになりました。
こんなに無器用な私の演奏活動は、ほんとうにたくさんの方との交流の上に、そしてお力添えの上に成り立っています。
私自身の力は小さなものですが、色々な出会いの中で、「音楽に生かされる瞬間」に恵まれてきました。それがまた少しでも周りの方々の歓びにもなりますように、これからも演奏していきたいと思います。
気が向いたら私の公式サイトも、覗いてみてください。