Skip to content

桑原(橘田)浜子さんを偲んで

私の大叔母、桑原浜子さんが先月95歳で亡くなった。

卵殻モザイクの大家であり、平和運動の旗手でもあった浜子さんを心から慕う人は、私の周りにも多い。他にふさわしい言葉が見つからず「大家」、「旗手」としてしまったが、ほんとうはこんな言葉ではとても表すことのできない偉大な女性だ。あれほど自然体で生き抜くことがまず真似できることではないし、その自然体の浜子さんと、浜子さんが生み出すみずみずしい作品を、周囲の人々が大事に大事に愛おしんできたこと自体、浜子さんが自然に対しても人間に対しても、ほんとうに深く温かい目を向けていた証拠のような気がする。

浜子さんの作品は見る人が見れば、その素晴らしさを立派に語ることができるのだろうけれども、とにかく私たちは、自分だって知らないわけではない花や木や山々が、浜子さんの作品の中で、見たこともない美しい瞬間の姿を留めていることにまず感動し、その一番美しい姿を知っている、そしてそれを卵の殻なんかで表現してしまう浜子さんのすごさに感嘆し、作品と浜子さんを交互に眺めてはなんだかうれしくなってしまう・・・そんな感じだった。
2000年に初めて東京で開かれた世界観ギャラリーの展覧会の時も、またその次のときも、会場に足を運んだたくさんの人々は、作品を心から楽しみ、そして小柄な浜子さんと言葉を交わし、ほんとうにうれしそうだった。

私個人の思い出としては、沖縄の渡嘉敷村に朝鮮・韓国の従軍慰安婦を慰霊するモニュメントを作ったときの話が、強烈に残っている。「そんなことをしたら殺してやる」という類の電話が何回もかかってきたが、まったく動じなかったと言うのだ。とにかく強い人だと思った。あのかわいらしい笑顔からは想像もできない。
もう一つは十数年前、上野の旧奏楽堂での私のリサイタルに来てくれたあと、盛んに私に言ってくれたことだ。「市郎さん(その数年前に亡くなった私の父)がね、インちゃんがベートーヴェンの月光を弾いているとき、私の隣で一緒に聴いていたのよ。パパはほんとうにインちゃんを応援してるね。」

浜子さんは幸せな人だったと思うけれど、最も幸せなことは、孫の彩ちゃんが同じ卵殻モザイクの道を歩んでいることだと思う。彩ちゃんの作品も見る人を幸せな気持ちにする。何かがつながっているのかな。

いつまでもいてくれるような気がしていた浜子さんが、亡くなられたという知らせを受けたときも、「自然体」という言葉が浮かんできた。自然に亡くなり、浜子さんが卵の殻で描き続けたあの自然の中に溶け込んでいったように感じられた。

桑原浜子さん、私たちに数え切れないほどの極上の作品を残してくださり、ほんとうにありがとうございました。心からご冥福をお祈りいたします。