あっという間に11月の半ばになってしまいました。「これはブログに書きたいなあ」と思うことがいくつもあっても、時間に追われ、また依頼された原稿も書かなければならず、またずいぶん止まってしまいました。
私は目下今月23日のリサイタルの準備に追われているのですが、当日のプログラムのために作曲家のこと、作品のこと、また私的コメントを書きましたので、一足先にブログでご紹介します。
ヘンデル(ドイツ→イギリス・1685~1759)
・クラヴィーア組曲第7番ト短調 HWV432
J・S・バッハと同じ年に生まれ、バッハとともにバロック音楽最大の作曲家と言われるヘンデルは、20代の4年間イタリアで活躍し、30代からはイギリスのロンドンに渡り、後にイギリスの市民権も得た。管弦楽組曲「水上の音楽」やオラトリオ「メサイア」が広く知られてきたが、ドイツ時代からすでにオペラを書き、その数は生涯に40以上となり、作曲するだけでなく、オペラの興行主としても手腕を発揮した「劇場人」である。有名な「ラルゴ」はオペラ「セルセ」の最初のアリア。また一方ヘンデル自身オルガンとチェンバロの名手でもあり、数多くの独奏曲を残しているが、バッハの作品が多く演奏されるのに比べ、耳にすることは少ない。このト短調の組曲は1720年に刊行されたクラヴィーア組曲の第1巻に入っている。
最後のパッサカリアだけが単独で演奏されることもある。
ここ数年、ヘンデルに夢中になった。3年前にヴァイオリンの島根恵さんといくつかのヴァイオリン・ソナタを録音したのがきっかけだったと思う。“美しい”とか“流麗な”というより、なんだかゴツゴツしているようにその時は思ったけれど、演奏すると独特な緊張感があり、なにか自分がその音楽にがっちりとつかみとられてしまって身動きできないような、そんなただものではない力を感じた。そして何十年も前に一度だけ聴いたことのあった、このト短調の組曲を思い出して弾いてみた。またオペラをDVDで何十回となく見た。お気に入りは「セルセ」と「アグリッピーナ」。特に20代の時にイタリアで書いた作品「アグリッピーナ」は何回見ても心を奪われた。登場人物の心理や人間関係が、信じられないほど斬新な音楽でストレートに表現され、終わったときには一切“重苦しさ”が残らない。聴く人の心を“活性化”させる力のある音楽だと思った。オペラに夢中になればなるほど、登場人物も言葉もない器楽曲の難しさを感じたけれど、“音楽の雄弁さ”、また“重苦しさを残さないエネルギー”は同じだと思う。
ハイドン(オーストリア・1732~1827)
・ ピアノソナタト長調Hob.XVI:6
・ ピアノソナタ変ホ長調Hob.XVI:52
ハイドンはモーツァルト、ベートーヴェンへと受け継がれるウィーン古典派の基礎を築いた。 エステルハージ侯爵家の宮廷楽長を、副楽長時代を含めると30年間務め、その間様々な機会に必要に応じ、宮廷楽団が演奏するための交響曲や室内楽を作曲し続けた。生涯に100曲以上の交響曲を書いたため、「交響曲の父」と呼ばれる。ハイドンの時代はクラヴィーアと総称される鍵盤楽器がチェンバロやクラヴィコードから、現在のピアノの前身であるピアノ・フォルテに移っていく過渡期であり、52番を含む最期の5つのソナタがピアノ・フォルテのために作曲された。初期のソナタは、生徒に弾かせるために書かれたものが多く、作曲に当たっては大バッハの次男、C.P.E.バッハのソナタ集が手本になった。初期のソナタ第6番ト長調はハイドンのソナタの中では珍しく4楽章から成り(ほとんどが3楽章である)、第3楽章の美しさは特に際立っている。第52番変ホ長調は後期の傑作。エステルハージ家の楽団の解散によって自由になったハイドンは60歳を前にして初めてロンドンに招かれ、4年後に再度ロンドンに滞在した。その折テレーゼ・ジャンセンーバルトロッツィという才能豊かな女性ピアニストのために書いた、3曲のソナタの中の1曲。広大で変化に富んだ変ホ長調の第1楽章のあとに、ホ長調の第2楽章が置かれているのが印象的。
ヘンデルの没後250年とハイドンの没後200年が重なったことで、この二人の作曲家の作品にこの数年同時に親しめたことは、私にとってとても幸いなことだった。ハイドンは長い間、モーツァルト、ベートーヴェンの先輩という方向から見るばかりで、この強烈な個性の二人に比べ、何か地味で敷居が高い感じがした。そして「ハイドンこそすごい作曲家なのだ」というような言葉を聞くと、いっそうその敷居は高くなった。素直に“とても好き”と思えることがあっても、それは自分の独りよがりなのでしかなく、ほんとうに分かっているわけではないのだ――と思った。今は――と言うと、もしかしたら“独りよがりの何が悪いの”と開き直っただけかもしれないけれど、ハイドンの先輩に当たるヘンデルに触れることで、私にとってはハイドンの音楽がとても近くなったことは確かだ。最初から“バロックから古典派へ”という流れを感じるべきだったのかもしれない。ロンドンを訪れ、そこで数多く演奏されていたヘンデルの音楽に触れた時のことをハイドンは、「感動のあまり、まるで音楽を学び始めた原点に押し戻されたように感じた。」と語っている。それはともかく、ヘンデルの作品を弾きヘンデルのオペラを楽しむことで私は、ハイドンの音楽の魅力を以前よりずっと身近に感じられるようになった。今のところ、“ハイドンのソナタって、こんなに親しみやすくて生き生きしてて素敵でしょ”と語れるような演奏ができればいいかな、と思っている。52番の変ホ長調は“一つ選ぶとすればコレ”とずっと思っていた本命。6番のト長調は、ヘンレ版の楽譜3巻全54曲をとりあえず全部弾いてみて、“コレ、素敵”と思った中の1曲。
ブリテン(イギリス・1913~76)
・ 組曲「休日の日記」作品5
ブリテンは20世紀イギリスの最大の作曲家と言われる。早くから音楽の才能を現し、12歳から本格的な作曲の勉強を始めた。王立音楽学校時代はモーツァルト、シューベルト、マーラーとともにシェーンベルクやベルクに興味を持ち、ベルクに師事したいという希望を持ったが、保守的なイギリスでは12音音階は危険思想と見なされ、実現しなかった。卒業前に父親が亡くなり、家計を助けるのために記録映画や劇のための付随音楽作曲の仕事をしたことが、後にオペラの作曲において非常に役立つ。またその仕事を通して多くの優れた芸術家に出会い、特に詩人W.H.オーデンからは強い影響を受け、英詩の美しさに目覚め、また芸術家の社会的政治的責任についての意識を持つようになる。39年には友人のテノール歌手P.ピアーズと共にアメリカに渡り、創作活動に没頭するが2年半後第2次大戦下の英国に戻り、「良心的兵役拒否」を認められ、更に音楽活動に専念する。代表作の「ピーター・グライムス」、また日本の能「隅田川」を元に作曲された「カーリュー・リヴァー」など、60年代まで毎年のようにオペラを発表するほか、様々なジャンルの作品を書いた。また自身たいへん優れたピアニストとして、また指揮者としても活動し、56年にはピアーズと共に来日し演奏している。この「休日の日記」は学生時代21歳のときの作品で、ピアノを習った恩師A.ベンジャミンに献呈された。
昔ブリテンの代表的なオペラ「ピーター・グライムス」を見た時は、なにかとても暗い話で、内容もよくつかめなかったけれども、ものすごく感動したことを覚えている。それから「ルクレシアの陵辱」というオペラも、東京室内オペラの公演で見た。だからブリテンの音楽には触れていた。中学校の教材になっているという「青少年のために管弦楽入門」は知らなかったけれど。いつからかこの「休日の日記」の楽譜を手に入れて時々引っ張り出しては眺めていた。“弾いてみよう”という気持ちになったのは2年前。21歳の若者が書いた作品で、確かに若さに溢れているけれど、それだけではない何か老成したと言うか、もうしっかり自分の世界を、そしてそれを形にする力も持っているのが分かる。4曲目の「夜」の存在が、ブリテンの目線を感じさせるように思う。早朝冷たい水に飛び込む若者たち(第1曲)、のんびりボートを漕ぎながら美しい自然に身を任せる心地よさ(第2曲)、遊園地の遊具一つ一つに熱狂する人々(第3曲)。そんな「休日」を過ごした人々が眠りにつく夜、誰も気が付かないけれど、木々は露を含み、明日の命を静かに育んでいる。何か人間を越えた「大きく温かい意志」のようなものを感じさせる。
ドビュッシー(フランス・1862~1918)
・ 「子どもの領分」「喜びの島」
ドビュッシーは11歳でパリ音楽院への入学を許され、22歳でローマ大賞を得てローマへも留学した。象徴主義詩人マラルメのサロンに参加し、印象主義や象徴主義の画家たちに共鳴し、ロシアでムソルグスキーの音楽に触れ、1889年にパリで開かれた万国博覧会でジャワのガムラン音楽を聴き、また中世の教会旋法や五音音階を吸収したドビュッシーは全音音階を創造し、まったく新しい印象主義音楽の世界を切り開いた。30代初めに書いた代表作「牧神の午後への前奏曲」では、マラルメの詩「牧神の午後」のつかみどころのない牧神の夢の世界を、印象派の絵画を見るようにすべておぼろげな印象として、オーケストラの音で描き出すことに成功した。ピアノのための2巻の「前奏曲集」でも印象主義的技法が駆使されている。「子どもの領分」(1906~8)は当時4歳だった愛娘のエンマに捧げられた。第1曲はクレメンティのつまらない練習曲「グラドゥス・アド・パスナッスム」を無理やり練習させられる子どもが、最後には練習を終え遊びに飛び出して行く。第2曲の「象」はエンマがかわいがっていた縫いぐるみ。第5曲はプレゼントされた羊飼いの人形が吹く葦笛。第6曲は真っ黒い顔のグロテスクなゴリウォーク人形が、南アメリカのジャズ発祥以前の音楽で踊る。「喜びの島」(1904)は交響詩「海」と同時期に書かれ、“音楽は色と、リズムを持った時間とでできている”と語ったドビュッシーがピアノのための書いた、“力と優美さを兼ね備えた”シンフォニーと言えるかもしれない。18世紀初めに活躍した画家ワトーの代表作「シテール島への船出」にインスピレーションを得て作曲したと言われている。
学校の5年の時、「子どもの領分」を弾いた。その時のことを思い出しても(と言うか、何も覚えていないことを考えても)私のような普通の子どもには、とても理解できる世界ではなかった。もう少したって初めてピアニストがコンサートで弾くのを聴いた時は、特に「雪は踊っている」や「小さな羊飼い」など、何とも言えない不思議な世界に連れて行かれたような感じがした。学生時代、恩師の伊達純先生がNHK・FMでこの曲集を弾かれ、それは録音して何度も聴かせていただいた。あの「子どもの領分」はどのレコードの演奏よりも好きだった。ドビュッシーのピアノ曲の中でも、独特な世界を持っている。余白がものを言うような魅力がある。それに対して「喜びの島」は対照的だ。すごくたくさんの音に埋め尽くされている。考えてみるとこの曲には数十年!あこがれていた。あこがれてはいたけれども、自分が入っていかれる世界ではないと思っていた。理由の一つは、この作品について必ず語られるワトーの絵「シテール島への船出」だ。画集で見るからかもしれないけれど、ドビュッシーがピアノの音で描き出した世界は、この絵より何倍も自由に大きく光り輝いている。その“喜び”はもっと本質的なところに向かっていると感じる。優雅な貴族趣味を満足させる「喜びの島」ではなく、たとえば「水と空気をたたえて宇宙に浮かぶ青い地球」を「喜びの島」と見る――そんな壮大さをも受け入れる世界だ。20世紀から18世紀を振り返った産物で終わるのではなく、21世紀の今の、この瞬間のかけがえのなさをも表現できる作品に違いない。