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鳥の声

最近の私の楽しみの一つは、鳥の声を聴くこと。どこか山へ行くわけでもないし、いろいろな鳥を知っているわけでもない。鳴き声と鳥の名前が一致するのはすずめ、からす、やまばと、うぐいす、かっこう、それに尾長鳥ぐらい。比較的緑の多い三鷹市に住んでいると、道を歩いていればたいてい鳥の声が聴こえてくる。山で聴く鳥の声は格別かもしれないけれど、立ち話をする人の声、車の音、アスファルトを歩く自分の足音、子どもの声、時には工事の音や商店街のアナウンス・・・そんな中に小鳥の声がすると、一つ一つはバラバラな音の中にハーモニーが感じられてくる。人間が暮らしているところで、人に飼われているペットではなく、小鳥には小鳥の世界があって一緒に生きているということが、何かとてもうれしくなる。

4月から5月にかけては、近所の木立でうぐいすがよく鳴いた。うぐいすがすぐそばで鳴いたりしたら、もう歩いてはいられない。時間の許す限り立ち止まって聴きほれる。何回繰り返しても飽きることがない。声が澄んできれいというだけでなく、その“無心”に感動する。あんな音が出せたらと思う。
母が家の居間にいたら、お隣の庭にうぐいすが「ホーッ」と鳴きながら真横に飛んできて、パッと木に止まって「ホケキョ」と鳴いたと、興奮して話してくれた。けっこう行動的なのだ。
10年ぐらい前から家の近くにはいなくなってしまったのがやまばと。昔は庭でよく鳴いた。やまばとの鳴き方はほんとうに個性的だ。「自分の音型」というものは持って生まれたものなのか、親から受け継ぐのか、勝手に決めるのか。
とにかく単純なパターンでいながら独創的で、その音型を淡々と繰り返していたかと思うと、意外なところでパタッと止む。
一番不思議だったのが、19年前の父が亡くなったとき。亡くなって数日の間、庭で鳴いていたやまばとの音調は、それまでに聴いたこともないような哀愁を帯びた音調だった。後にも先にもあんな音調は、一度も聴いたことがない。
それからあの頃、お隣の公園のような大きな庭によく来ていたかっこうが、やはり父が亡くなった直後、私の部屋のまん前(2階は両親の部屋)に2羽で来て鳴いた。かっこうの声というのは1・2メートルの距離で聴くと、鳥の声というより、オカリナのような音だった。それが2羽で一緒に鳴く。1拍ずれて「カッカッコー・カッカッコー」と3拍子のように鳴いたかと思うと、今度は半拍ずれて「カッカッコッコー・カッカッコッコー」と見事なデュオを聴かせてくれた。あんなことがあるのだろうか。

かっこうと言えば最近、18世紀のフランス・バロックの作曲家ダカンの、「かっこう」という曲をよく弾いている。すごく素敵な曲だ。保育園の男の子がそれを聴いて、黒いマジック一本で大きな模造紙いっぱいに、木々に止まってさえずるたくさんのかっこうを描いてくれた。子どもはほんとうに素敵だ。“ああ、こんな風にこの子には聴こえたんだ”を感激した。

そう言えば10年以上前、初めてチェコへ行った最初の日、プラハの街中のホテルに泊まって翌朝、小鳥の声で目が覚めた。それはたぶんあちらではどこにでもいる鳥に違いないけれど、音階を駆け上るような、作曲された音楽のような鳴き方で、その声の美しさ、旋律の豊かさにほんとうに驚いた。“やはり小鳥からして音楽的なんだ”と思った。
ピーセクという古い歴史を持った地方の町では、文字通り「小鳥のオーケストラ」を聴いた。「ピーセク」という町の名前自体、小鳥の声を表しているのだそうだ。
そのピーセクでも一番古い由緒ある教会でのコンサートは、あまりにも悲しい状態のピアノでの演奏ではあったけれど、聖堂の響きの素晴らしさと、外から聴こえてくる小鳥たちの声との共演で、格別のコンサートとなった。

今小鳥の声に惹かれるようになったきっかけは昨年の12月、神奈川県のある小学校でコンサートをした時。友人がその小学校の教師で、私は彼女に語ってもらって「ピーターと狼」を子どもたちに聴かせたかった。プロコフィエフのこの作品はもちろんオーケストラの曲で、オーケストラの楽器紹介の曲のように思われているけれど、これがプロコフィエフ自身の手によってピアノ版に編曲されていて、それがとてもいいのだ。
「ある朝早く、ピーターは門をあけ、大きな緑の牧場へ出て行った。」と始まり、まずピーターのテーマ。そして「木の上では仲良しの小鳥が一羽止まっていて、“ほんとうに静かだねえ”とさえずった。」、ここで小鳥のテーマ。オーケストラではフルートで吹かれるこの小鳥のテーマが、ほんとうにかわいらしい。
まだ生徒の来ていない会場の体育館で、一人でまずこの小鳥のテーマを弾いてみた。その時突然、窓の外の木立で、私のピアノに応えるように小鳥がさえずった。一瞬、小鳥の気持ちになって弾いた私のピアノが、小鳥に通じたように感じられた。
あの時から、小鳥とちょっと友達になったのかもしれない。

それからしばらくしたある日、家で自分の部屋にいると小鳥の声がした。あわてて窓を開けると、「ツィッツォツィッツォツィッツォツィッツォ」と遠くで鳴いている。“アッ、プロコフィエフが作曲したのはきっとこの鳥の声だ。”と思った。ぴったりなのだ。ただ心の中で合わせてみると、“少しテンポが遅い”と感じた。その瞬間その声が止んで、数秒後、同じ鳴き声がまさに私が弾いている小鳥のテンポで、また始まった。「ツィッツォツィッツォツィッツォツィッツォ・・・・・・」
びっくりしすぎて一人で呆然。

こんなことばかり書くと信じてもらえないのじゃないかと心配になってくる。でもここに書いたことは言うまでもなくすべてほんとうのことです。